HHKBを購入した女子生徒のその後
生きることにこだわりを。魚住惇です。 今回もちょっとしたこだわりに、お付き合いください。
Pythonについてまとめるのが楽しい
大晦日に実家に帰り、旧友たちと会うまでの間に突如として始めたPythonのまとめページの作成。これがなかなか楽しくて、続いています。 Pythonって調べたら調べるほど痒いところに手が届く関数が用意されていて、「いやいやそんなのありかよ」みたいなこともできちゃうものがたくさん出てきて驚いています。 例えばsort関数なんて使ってしまったら、一発で並べ替えてくれるわけですよ。もう授業では使用を禁止したい関数です。なのでまとめてもいません。 そういうのは、せめてバブルソートと選択ソートを理解してからじゃ。でも便利じゃのぅ。 大体、for分に使うrangeオブジェクトも、卑怯じゃ。範囲の指定が楽すぎる。 なんて思いながら、Scrapboxに授業で使うためのページをまとめています。 顧問を務めている商業部の1年生の一部では、まさに僕が授業で教えているPythonがブームとなっています。僕がいつ顔を出しても、プログラミングの課題をいち早く終わらせようと頑張っている姿を目にします。 みんなでワイワイ会話しながら、あーでもないこーでもないって課題に取り組む姿は、見ていて感動します。勉強に限らず、人が何かに打ち込んでいる様子を見ると、込み上げてくるものがあります。 こういうのを、教師冥利に尽きるって言うんでしょうか。 頑張ってくれている姿を見ると、ついつい応援したくなります。 当然、わからない部分については質問を受けます。ただ、「今から言う通りのコードを打てば動くぞ」みたいなアドバイスはしないようにしています。 どうにかして、生徒本人の頭で考えて考えて考え抜いて答えが導き出せるような、そんな言葉を探しながら声をかけることを心がけています。
そんなことを考えながら教えていると、先日、僕がScrapboxに教材として書いた内容について、指摘してくる生徒がいました。
「先生、このサンプルのコードなんですけど、この部分いらなくないですか?」
え?と思って、確認したコード、見てみると確かに余分なところがあって、その記述がなくても問題なく動くことに、その時見たら気づきました。
僕はその時、見つけてくれた生徒にお礼を言って慌てて修正したのですが、自分の間違いを指摘されて「しまった」と思ったのが半分、間違いを指摘できるくらい勉強をしてくれたのかと嬉しかったのが半分という気持ちでした。 いや、半分はおかしいな。ほぼ嬉しかった。
生徒からの指摘で、自分のミスに気づけたのが、嬉しかったんですよ。そこに気がつくようになるくらい、コードについて理解してくれるようになったのかと感動しました。
常に上から目線でふんぞりかえる先生もいると思いますが、僕は自分の立場が常に上だとは思いませんし、生徒の方が優れている時は素直に尊敬します。 確かに今回、プログラミングの課題を用意したのは僕だったんですが、それは自体は題材に過ぎず、プログラミングを通して生徒とコミュニケーションをとり、同じ方向を向いて走っていく感じが、とても楽しかったんですよ。
僕が準備をした仕掛けを面白いと感じ、ついてきてくれる生徒がいる。本当に毎日が楽しくて、1週間があっという間に過ぎていきます。
ただ欲を言えば、僕が今作っているようなPythonのまとめは、本来ならば生徒本人が作った方が良いんだよなって思うのです。 一時期Twitterなどでも流行った、図解というものにも同じことが言えるんですが、まとめたり図解として表現するのは、作った人が一番理解力が上がります。
よく勉強の方法にも、「ノートにまとめる」という作業が出てきます。覚えるか覚えていないかは別として、情報というのは、まとまった情報を読む人よりも、まとめた本人の方が理解力が上がるのです。
今回のことで言うと、Pythonの関数やオブジェクトについてまとめたサイトを僕が作ることによって僕の中でのPythonの理解度が高くなった代わりに、生徒は見るだけになってしまうので、生徒自身もノートにまとめない限り、新しく得た情報をまとめる力を養う機会を奪うことにも繋がっているのではないか。そう心配してしまうのです。
学校の授業で言うと、板書ノートと言うものを書いている先生がいます。その先生はそのノートを元に、黒板に内容を書きながら話していきます。これが100年前から変わらない、授業の手法ですね。
この手法で進んでいく授業で、一番内容の理解力が上がるのは、先生本人です。 その一方で生徒は、まとまった情報をノートに書き写すだけの、ただのコピー機と化します。 一語一句間違えずに書き写す。確かに意志を持ちながら行う模写には一定の効果はありますが、理想なのは、生徒が自ら情報をまとめることです。
今回、僕が自分で勉強した情報をまとめている作業を通して、「これは楽しいし、本来なら楽しく勉強するってこういうことで、それは生徒自身がやることだよな」と改めて思ったのでした。
愛知県知事の発表によれば、前回のnewsletterで話題にした生徒一人1台タブレット端末が実際に配備されるのは今年の9月だそうです。 いよいよ、来たる日が来るのかという気分です。 いつかくるこの日のために、Obsidianを愛知県の県立高校で活用する手はずを整えたんだ。
来年度から、デジタルノートテイキングについて教えられる時代が始まるのかと思うと、ワクワクします。
HHKBを購入した女子生徒のその後
前回のnewsletterで、HHKBに目覚めた女子生徒の話をしました。
あの後実際に購入し(しかもHYBRID Type-S)、それ以来毎日学校に持ってきています。
そもそも高校1年生の女子生徒が、毎日の部活動にマイキーボードとしてHHKBを持ってくること自体が珍しくて、世界にこの子しかいないんじゃないかって思えるくらいのことだと僕は思います。
持ってきて繋いで使っている様子を見て驚いた僕は、「うお!持ってきてんじゃん!」と声を掛けました。
そうしたらその生徒は、コンピュータ室に常設されたキーボードを指さして、こう言いました。
「もうこれ(普通のキーボード)じゃだめで、こっち(HHKB)じゃないとだめってなりました。」
仕上がってんな。
自分自身、似たような感覚でいることは重々承知ですが、いざ同じような発言を生徒から聞くと、言葉を失うものです。
味覚にも同じことが言えると思います。例えば、これまで自分の中で美味しいと思えるコーヒーを飲んでいたとして、更に上のレベルの美味しさのコーヒーを知ってしまった場合、自分の中の「美味しい」と思えるラインまでもが上がってしまいます。
今回のこともそれと同じようで、メンブレンのキーボードをずっとそのまま使っていたら、きっと何も疑問に思わずに使っていたと思うんですよ。 それが、HHKBをしばらく使い込むことによって、静電容量無接点方式の、あのなんとも言えない病みつきになってしまいそうな打鍵感を知ってしまい、それが当たり前の感覚になってしまった。 これによってメンブレンに戻ったときに、逆に違和感を感じるようになるわけです。
もうここまで来てしまったら、HHKBを使い続けるしかありません。コンピュータ室の、不特定多数の生徒が使い込んでへたりにへたったメンブレンなんか使っていられるかって思うようになります。
多分だけど、僕が余らせていたHHKBをしばらく貸していたのも、購入に至った要因なんだろうなぁ・・・。 いや、決して上に書いた効果を狙ったわけではありませんよ? 僕としては、高い買い物なので、納得して購入して欲しくてPro2 Type-Sをしばらく彼女に貸していました。 まさか、ここまで良さを分かってもらえるとは思ってもみませんでした。
ちなみに、部活動ではなくて、僕の情報の授業でHHKBを使わないのかと聞いてみたところ、 「流石にそれは・・・」と言っていました。 ノートパソコンにHHKBを接続して、クラスメイトの前で使うのは、まだまだ勇気が必要らしいです。
僕としては、筆記用具と同じように、教科書とHHKBを校内で持ち歩いてみてほしいんですけどねぇ。 思春期と重なる多感な時期には、酷な話でしょうか。
ちなみに僕は今、1人一台タブレット端末が導入された時に、その生徒がHHKBをタブレット端末に接続して使ってくれるのではないかと期待しています。
愛知県はMicrosoftと包括契約を結んだので、タブレット端末の機種はSurfaceGo3か、売れ残ったSurfaceGo2でしょう。Surfaceのキーボードは、HHKBとはコンセプトが違うというのもありますが、入力の快適さを考えるとやばいレベルだと思っています。どの列も0.5Uずつズレているし、打つとぐわんぐわんたわみます。
SurfaceGoの前にHHKBを置いて授業で使う姿を、来年度是非とも見てみたいものです。
まだまだHHKBに慣れておらず、角度調整の爪が2段階あることも知らなかったようですが、アルファベットのキーは既にタッチタイピングが実現しています。
追々、教える内容が増えていきそうです。
文章を書く時、最初にノートに手で書く理由
前々回のnewsletterで『思考のエンジン』について話題にしたときに、安堵したと書きました。
いざ僕が文章を書くとなったら、一番最初にやることが紙のノートに万年筆を使ってフリーライティングを行うからです。 HHKBの話を散々しておいて、何台も所有しているくせに、なんでHHKBから始めないんだというツッコミも多方面から入りそうです。
この「文章を書くときに、最初に手書きで内容を書き出して、その後でキー入力で清書する」という方法が、『思考のエンジン』に出てきたので、「自分と同じ手法の人、他にもおる!」みたいな感じに安心したわけです。
でもただ安心しただけでは物足りないと思いました。やっぱりここは、「なんで自分はその方法でないと書けないのか。」という疑問についての答えにたどり着いておくべきだと考えたのです。
HHKBエバンジェリストともあろう自分が、文章を書くときには手書きを選んでいる。その理由を考えてみることにしました。
数年前、佐々木正悟さんと会って話した時にもこの話題になりました。その時に佐々木さんにこう言われました。
「LINEで誰かに送る文章は、手書きで下書きを書きますか?書きませんよね。つまりそういうことなんです。スマホでのフリック入力だったとしても、人というのは、考えながら文章を書くことが可能ということなんですよ。」
このご意見には、「確かにそうだ。LINEの返事を送る時は、わざわざ紙に手書きで下書きなんて書かない。」と素直に納得できた面もあったんですが、それでもある程度長い文章を書くとなると、どうしても下書きしたいなぁってずっと思っていました。
でも今回、このモヤモヤも少し晴れた気がします。
僕は、キーボードでタッチタイピングができたとしても、フリーライティングができない。ということがわかったんですよ。
テキストエディタにキーボードで入力していると、ついつい目の前の文章を読んでしまい、「ここの表現、どうしようかな」と考えたり、修正したくなるという自分の習性に気づきました。
これが万年筆でノートに思ったことを書いていると、編集しようと思ったり考えることもなく、ずっと書き続けることができました。万年筆で書いているので、当然後で書き換えることができません。取り消し線を書いたとしても、文字を書いて、それを消したという記録がノートに残ります。
カンブリア宮殿に出演されている村上龍さんは「手書きだと、手が考えてくれているような感じがする。」と過去の番組で話していたことがありました。キーボードで入力するよりも手で書いた方が、書きながら考えることができて、どんどん文章を書き出すことができるという考え方です。
これは僕も実感している話です。ですが、キーボードで入力している時だってきっと何かしらを考えているだろうし、それは入力だろうと手書きだろうと変わらないのかもしれないとも思ったのです。
だからこそ、手書きで脳が活性化するみたいな話は置いておいて、書いた文字を消したり入れ替えたりすることが一切できないアナログツールを使う方が、執筆が進むのではないかと考えるようになりました。デジタルツールと比べると、アナログツールというのは制約が多くあります。1ページの大きさだったり、スクロールできなかったりと、デジタルと比べると不便です。
この不便な環境の方が、むしろ文章が出てくることが多いなということに気づきました。
さっきの佐々木さんの話に戻ると、LINEの文章くらいのものだったら、今の僕でもLINEの画面上だけで入力しています。でもそれは、手書きで下書きを考えなくても良いくらいの、ただの連絡に限った話で、割と長い文章を考えるのなら、一旦、制約があるアナログツール上で思考を巡らせる方が、フリーライティングをちゃんとやれるんじゃないかと思ったのです。
僕がフリーライティングを行う上で、今のところ最適な環境というのが、アナログツールだったということです。
なので、もしテキストエディタにフリーライティングモードという機能が搭載されるのなら、漢字変換した後の文字が一切修正できないとか、敢えてページの概念を入れて、次のページに進んだら、前のページに戻れなくするとか。デジタルツールのなかでわざと制約を作ることで、思考を誘発するような仕組みが作れるんじゃないかと考えました。
デジタルで行う制約ありのフリーライティングがもし実現できるなら、それはそれで、僕にとって大きな変革のタイミングとなるかもしれません。
今回のnewsletterは以上となります。 「いいね」を押していただけるとうれしいです。内容に関するご意見ご感想や、フリーライティングに適したエディタがありましたら、「#こだわりらいふ」をつけたツイートや、Substack内のコメントまでお願いします。