大正自由教育運動とGIGAスクール構想の共通点
生きることにこだわりを。魚住惇です。 今回もちょっとしたこだわりに、お付き合いください。
大正自由教育運動とGIGAスクール構想の共通点
岐阜市歴史博物館で開催されていた、企画展「学制発布150年記念 岐阜の学び舎150年」を見てきました。その感想と、心に残った事柄をお話しします。
まず、岐阜市歴史博物館のサイトがこちら。
企画展「学制発布150年記念 岐阜の学び舎150年」|岐阜市歴史博物館
NHKニュースの映像はこちら。
学制150年 学校教育の移り変わりを振り返る|NHK 岐阜県のニュース
そこで展示されていた、国民学校時代の校長室の机と椅子での写真が、Twitterで投稿したこの写真というわけです。
ちなみにこの写真にある地球儀、日本の場所が大日本帝国って書いてあって、朝鮮半島が同じ色をしていたんですよ。
そもそも小学校の名前を国民学校にしたのも第二次世界大戦の時代なので、「国民学校」って表現している時点でその時代を差してしまっているわけですが、Twitterで大日本帝国って書くとあらぬ誤解を受けてしまう可能性があったので、その表現を避けました。
で、肝心な展示内容についてですが、まずこの博物館で展示されていた企画展の内容の、前半のほとんどが、寄付者の名簿でした。学制が発布された頃は、地域の人たちから寄付金を募って小学校を作ったという記録が大量にあり、その名簿が当時の写真が残っている小学校ごとに並べられていました。展示会場の1/4くらいが、ずっとその名簿。
僕は愛知県民であって岐阜県民ではないので、岐阜県の小学校にそこまで思い入れがないためか、正直「そんなに寄付者の名簿で会場を埋めなくても良いのでは」とばかり思っていました。恐らく岐阜県民の方なら、身内の方の名前が書いてある可能性があったのでしょう。
明治維新が日本で起こり、学制が発布されたのは明治5年のことでした。海外ではすでに産業革命が起こり、欧米列強が国力を付けている中で、日本もそれに追いついて追い越そうとしていた富国強兵の時代です。すでに多くの藩校や私塾がありましたが、学制発布によって、国として統一した教育を行うために小学校化されていきました。寄付金とはその時に校舎などを整備するために必要だったお金を賄うためのものでした。
年表で確認すると、明治22年に大日本帝国憲法が公布され、翌年の明治23年に施行されています。それに合わせて、同じ年(明治23年)に教育勅語が当時の天皇より下されました。天皇のために一丸となって頑張りなさいねっていう教育の始まりです。
そして日本は日清戦争、日露戦争、太平洋戦争と、戦争への道を歩んでいくのでした。みたいに、僕の頭の中ではざっくりまとめていました。いわゆる「お国のために」っていうやつです。
でも、その間にあった大正時代に、「画一的な教育じゃなくて、もっと新しい実践を積極的に取り入れていこう!」という自由教育運動が起こっていたなんて、お恥ずかしい限りですが魚住は知らなかったんですよ。
博物館で展示品を見ていて、寄付金の名簿の後に出てきた自由教育運動が特に心に残ったので、今回は文章としてまとめたいと思います。
大正自由教育運動
まずこの言葉の意味から。
それまでの画一的で型にはめたような教育のスタイルから、子どもの関心や感動を中心に、より自由で生き生きとした教育体験の創造を目指そうとする運動が、この大正時代に、折からの大正デモクラシーの風潮を追い風にして広まった。
自由主義的な運動である大正デモクラシーが、その頃の学校教育にも影響を及ぼしていたという話です。当然といえば当然のようにも思えます。ウルトラマンや仮面ライダーがその時の時代背景を取り入れるように、学校教育も時代と共に変わるものです。
「そんな一方的に知識を伝える画一的な教育じゃなくて、生徒の主体性を育てましょうよ」っていう教育を進めようとうする運動が戦前に起こっていたなんて、歴史をざっくりとしか捉えていなかった無知な自分からしてみたら、とても信じられなかったんです。
GIGAスクール構想が進められる前まで、学校教育ってみんなで同じことを頑張るっていうのが授業の基本でしたから。僕自身が過去に受けてきた教育も似たようなもんです。出る杭は徹底的に打たれるし、授業中はみんなで同じ問題を解いてました。
それじゃいかんでしょ。生徒の今後の生活に合わせて、自ら学んでいく姿勢を大切にしましょうよって、当時の自由教育運動を進めていた人はよくそんなに打たれそうな杭を出してたなぁって感心します。
しかもね、博物館で展示されていた、その時代の先生の教育実践というのがあって、具体的な事例が紹介されていました。その中でも個人的に「これは・・・!」と思ったものを紹介します。
川口半平先生が推進した「生活綴方教育」
実際に展示されていた3人の先生のうち、魚住の心に残ったのが、川口半平という先生。この方は岐阜県で小学校の先生になり、第二次世界大戦中に校長を務めて、その後岐阜県の教育長にまで上り詰めた人です。
この川口先生、元々文学が好きな方で、新任だった頃に大正デモクラシーの影響を受けて、生活綴方教育っていうのを実践して推進していたそうです。
具体的な内容についてはここにまとめられています。
岐阜の綴方教師 : 川口半平小伝(21世紀にいきる国語教育実践学の構築に向けて)
この「綴方(つづりかた)」っていう言葉の意味は、大正時代で言うと「文章を書く」っていう意味です。綴方なので、「文章を書くための方法」と言う意味になります。
それに「生活」がくっついた「生活綴方運動」の意味は、コトバンクにてこう説明されています。
生活者としての子供や青年が、自分自身の生活や、そのなかで見たり、聞いたり、感じたり、考えたりしたことを、事実に即して具体的に自分自身のことばで文章に表現すること
梅棹忠夫先生が『知的生産の技術』の中で書かれていた発見の手帳と似たような話だと思いませんか?
そして、僕が最近ずっとやっているデイリーノート、ひいては今こうして書いているnewsletterだって、生活綴方そのものだとも思うんです。
自分が生活している中での気づきを文章で残していくこと。そしてそれを元に学習を進めていくこと。川口先生はこの方法で生徒を指導していくことが、生徒に主体的に学んでもらうことに繋がるんだと考えていました。
この方は、自分が考えたことを文章として表現することを本当に重要視されていて、岐阜県教育長時代に第一回作文教育全国協議会にて「作文教育の盛んなる時こそ、本当のことが行われるときである。作文教育がダメになる時は、教育がこのましからぬ方向に進む危機の時である」と発言したことが記録にも残っています。
この発言に至った理由として考えられるのは、この生活綴方運動を含めた大正自由教育運動への規制です。
昭和初期の教育審議会では、この教師たちの自主的な学校教育改革の成果が報告されると、危険視する動きが見られました。教育審議会の林博太郎整理委員長に「あくまで「綜合教授」 は自由主義的に基づいておこなわれるものではなく、皇国精神、すなわち皇国民の錬成を目的におこなわれるものだという。」と否定されて、お国のため戦争のためという方針だった国民学校では採用されなくなったのです。
ここからは魚住の推測ですが、自分が考えたことを文章化して、その時に思った感情などを大切にしていく自由主義の教育では、教育勅語の「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」、つまり、国の一大事の時には身を捧げよという方針にさえ、異を唱えるように育ってしまうのではないかと危惧されたんじゃないかと思います。
川口先生は、ご自身が若い時に情熱を注いだ生活綴方運動が時代の流れによって否定されても教師を続け、終戦時には校長先生という立場でした。終戦間際は不本意ながらも、お国のためにという教育をせざるを得ない状況だったと思うのです。そのご経験から、自分で文章を書くこと、作文の重要性をより一層身に染みて、「作文教育がダメになる時は、教育がこのましからぬ方向に進む危機の時である」という言葉になって現れたんだと思います。
僕自身は戦争を経験したこともありませんし、その頃の時代背景もこうした記録を辿ることしかできませんが、今こうして文章を世に出している者の1人として、文章が自由に書けない。公開できない。自由に文章を表現できない悲しみは、察することができます。
学習指導要領の告示
日本は戦後、GHQによって国政が再編され、教育勅語も廃止されました。博物館には、教育勅語の廃止に伴い、題名が黒塗りされ内容そのものが大きく切り取られた巻物が展示されていました。パラダイムシフトが起こるときは、それ以前の時代が否定されるものです。
戦後の教育では、学習指導要領という、どんな内容を学校教育で教えるのかという指針が示されるようになりました。戦後から現代に至るまで何度も改訂されていて、一番新しいものは平成30年に公示されたものです。小学校でプログラミング教育が取り入れられたり、僕の教科で言うと「情報Ⅰ」「情報Ⅱ」に再編されたり、数学は数学Cが復活する内容が盛り込まれています。そうそう、数学Cはつい最近までなかったんですよ。僕が高校生の時代にはあったんですが、その後にCが廃止され、今の高校2年生までは数学はⅠA・ⅡB・Ⅲなんです。
2年前にブログ記事にも書きましたが、戦後初めて告示された学習指導要領、僕ね、これが大好きなんですよ。
戦前の教育を間違ったものだとして、これからの時代はそうじゃなくて、型に当てはめた画一的な教育をやめて、みんなで工夫して作っていこうねっていう内容が書かれています。
リンクを貼っておきます。ご興味があるなら、是非とも序論の一だけでもいいから読んでいただきたいです。僕今このnewsletterを書くために序論だけ読んでしまって、もう泣きそうなんですよ。
川口先生は、この頃に教育長だったのかと思うと、感慨深いものがあります。
日本は戦後、工業化がより一層進み、高度経済成長期を迎えます。その時代は、みんなが同じように労働し、国が豊かになりました。働けば働くほど発展する時代でした。バブルが崩壊するまでは。僕の肌感覚では、どうもその時代に合わせた日本の教育は、命令に忠実な労働者を育てるために、画一的な教育を進めてしまっていたのではないかと捉えています。それが良いか悪いかではなく、その時代ではそれが正解だったと思います。今の管理職くらいの年齢の先生方は、ちょうどその頃に新規採用された方達です。
しかし現在の学習指導要領では、予測不可能な時代だからこそ、自ら学んでいける、時代に対応していくための力を養わせましょうっていう内容に改訂されました。ところがどうでしょうか。その学習指導要領の通りに教えられる教員は、どれくらいいるでしょうか。
学制発布から150年。博物館に展示されていた学校の様子の写真を何枚も見てきましたが、150年もの間の教室は、驚くほど変化しませんでした。黒板とチョーク、紙の教科書とノート。150年経って、GIGAスクール構想が進んで、やっと時代が変わろうとしています。
これまで、学校の先生という職業は、150年もの間、道具が進化しませんでした。職人気質な面が教員にはあります。できる人の技術を盗んで、鍛錬していく世界でした。それがどうでしょう。今はインターネットが当たり前の時代で、調べようと思えばいくらでも調べることができて、勉強しようと思えばいくらでも勉強できる時代になりました。ネットがなかった頃に教師となって定年退職するまで働いていたよりも、時代の変化がかなり激しい時代です。時代が変わるということは、良し悪しの判断すら簡単に変ります。これまでの職人技では対応できないことも現場では起こっています。ネットトラブルの対応を一つとっても、「そんな投稿なんてしなきゃいいのに」と生徒に言ったら、もうその時点で「わかってねーな」と思われてしまい、生徒からの信用を失います。
僕は常勤講師を3年間経験したので、教員採用試験は一次試験免除でした。一般教養と教職教養の試験を受けずに、二次試験の小論文・集団討論・個人面接だけを受験しました。「大正自由教育運動」で検索していたら教員採用試験の教職教養について説明するサイトが出てきたので、一次試験から受験する人はこの辺りについても勉強していると思います。そう思うと、今までの自分が、そんなことも知らない状態だったのが、恥ずかしいとも思ってしまいました。
令和の今は、子どもたちの主体性を重要視するGIGAスクール構想を進めている時代です。それが魚住の目には、教育勅語の最中に起こった大正自由教育運動に重なって見えました。なので大正時代の先生方が、どんな授業実践を試みたのかに興味を持ったのです。それがまさか、自分で文章を書きましょうという教育実践だったとはね。自分が今、子どもたちに授業で毎回振り返りシートで文章を書かせているので、想いが同じ先生を発見できて、心が躍っている間にこの文章を書きました。
今回は、子どもをゆかさんのご実家に預けて、ゆかさんと2人で博物館デートした記録を元に文章を書きました。久しぶりに2人で過ごした喜びと、今回の発見と、このnewsletterのネタにもなったことで、三度美味しい思いが出来ました。博物館デートに付き合ったゆかさん、お昼寝なしのいっちゃんの相手を見てくださったお義母さんお義父さんに感謝しつつ、新たな知識を得たことにも喜びつつ、終わりたいと思います。
エコスタイルで行けばよかったなとちょっと後悔。
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