担任は、楽しいよ
生きることにこだわりを。魚住惇です。 今回もちょっとしたこだわりに、お付き合いください。
労働の喜び
やっばいです。
昨年度、令和4年度は遅くとも18時には退勤していた生活を送っていました。
でも令和5年度は、ここんとこ学校を出るのが19時半ごろです。 その日の仕事が始まるのは、定時が過ぎてからです。労働に喜びを感じます。しんどくても頑張ります。忙しいのはありがたいことです。
疲れていると、正常かどうか判断する基準もブレるようです。心が摩耗しても働きます。ボロ雑巾。
普段なら、1ヶ月くらいかけて、ゆっくり準備していくことが、毎日のようにやってきます。
そんな自分でも、今心がけているのは、笑顔でいることです。辛かったり、イライラしていることが顔に出ていると、それだけで職場の雰囲気が悪くなります。
だからこそ、怒りが込み上がる時にも笑顔でいる方が、僕は正解だと思うのです。
「え?ICT支援員が来るんですか?え?個人情報を取り扱う業務はだめ?Webサイトのデザインを作ってもらうような、クリエイティブな仕事も全てNG?」
「それw、逆に学校の何の作業ならお願いできるんですかw。HAHAHAHAHAHAHAHAHAHA」
笑顔が大事です。
帰宅するのは、毎日20時を過ぎます。19時半ごろになると、管理職の先生が「まだ残られる先生はいらっしゃいますか?」と、職員室に残ってみえる先生方が聞こえるくらいの声で問いかけます。僕にとってそれが帰宅準備の合図です。
こういうアナウンスというか、聞き方って、良いよね。帰宅を促す言葉として、まだ残るのか聞くというのは。言葉に角がなくて、物腰が柔らかい。でも、甘いわけでもない。この人の言うことを聞こう、指示に従おうと自然と思えてきます。
20時を過ぎると、地元のスーパーもほとんどが閉まります。僕はその中でも21時まで開いてるスーパーに駆け込んで、見切り品の惣菜や野菜などを買います。
帰宅して、食事を済ませて、すぐに食洗機をON。食洗機が僕の代わりにお皿を洗ってくれているうちに、お風呂の準備です。
1日11時間労働を毎日のようにしている体にとって、お風呂はまさに命の洗濯。思わず意識が途切れます。
わかってますよ。命じゃない方の洗濯もしないといけない。お風呂から出たら、そのお湯を汲み取って洗濯機のスイッチをON。
洗濯機が回っている間に、次の日の授業の準備です。少しずつ進めていって次第にエンジンがかかり、ノリに乗ってきたところで洗濯機が終わりを告げます。
もう少し仕事してたい。でも洗濯物を干さないとシワになる。
自分が生きるためのタスクが最優先です。
そして洗濯物を干し終わると、23時半を迎えます。全てを諦めて布団に入り、目を閉じた次の瞬間には朝を迎えます。
おかしいなぁ、さっき寝たはずなんだけど、睡眠をとったという実感が全然湧かない。
それでも意識ははっきりしているので、目を擦ることなく身支度しつつ朝食を済ませて出勤します。昨年度よりも早いくらいに学校に着きます。
下手すると、昨年度、遅刻遅刻〜!と思いながら出発するくらいの時間に、職場に到着します。朝活の始まりです。
授業が終わって、部活が終わると17時半ごろ。そこからが本当に自由に仕事ができる時間です。年度はじめはアカウントの整備やら校務支援システムの年度開始処理などに時間を使うことができます。
ところがその後もなんだかんだで割り込みタスクが生じてしまい、本当にやりたかった仕事に辿り着けません。
そんな状況にも笑ってしまいながら、退勤する。こうして1日が終わっていくのです。お疲れ様でした。
担任は、楽しいよ
そんな中でも、担任として生徒と接するのは、とんでもなく楽しいんですよ。
僕は学校の先生という職業ですが、一人称を「先生」にしたことは一度もありません。
ほら、小学校や中学校の先生で、よくいるじゃないですか。「先生はね、今とっても悲しい思いをしました。」みたいに、自分のことを「先生」と呼ぶ先生。
その姿勢を否定しませんが、僕はその表現を使うのがちょっと苦手というか、自分が使うと「俺はお前らの先生様なんだから、言うこと聞けよ」みたいなニュアンスを含んでしまいそうで、嫌なんですよ。
そういうオーラにならない先生だったら、全然良いと思うんですけどね。僕には似合いませんでした。
この姿勢でいることに、管理職から指導を受けたことだってあります。一人称を「僕」から「先生」に変えなさいなんて、そこまで重要かなぁと内心思っていましたが、その方にとってはきっと重要だったんでしょう。
僕は今年で37歳になります。1986年生まれです。ということは、今年度の高校3年生の年齢に19を足した値です。
大学入試がもう20年ほど前なのかと思うと愕然とします。
自分にとって先生呼ぶべき存在は、確かに敬うべき存在です。ただ、どの点において敬うのかは人によって違います。だからこそ、子ども達から見て、何も敬う部分がなければ、ただ単に先に生きているだけの人なんです。
しかも、今は世の中が目まぐるしく変化しているので、もはや先に長く生きただけでは、敬う存在として見られないことも起こり得るようになりました。
今の自分になんか満足しちゃいけない。そう思うと、自分のことを先生だなんて、自分からはとても呼べない。それでも僕のことを一目置いてくれる人がいるなら、大変ありがたいことです。
自分がそんなスタンスでいても、30後半になってからなのか、やっとこさ空気を作る側に、回れた気がします。きっと他の先生方よりも、自分はこの段階に来るまでに時間がかかったと思います。
話を「担任楽しい」に戻します。
今の学校に赴任してきて6年目。やっと、自分の学年だと思える学年で担任ができた。そう感じています。
やっぱりね、そう思うと、目の前の生徒は可愛いの一言に尽きます。
子ども達は、可愛いよ。
あまり接してこなかったからか、まだ僕に対して心を開いてくれない生徒も多くいます。どう接したら、ちょっとは笑顔を見せてくれるようになるのか。それを考えるのも、これまた楽しい。
北風と太陽に例えるなら、「この人はどの角度から太陽光を照らしたら良いんだろか」って考えているようなものです。もう太陽として光を照らすのは大前提なんです。
時間もきっとかかります。一筋縄では行かないことがほとんどです。でも、担任をやるからには、自分のクラスの生徒には笑顔になってもらいたいじゃないですか。
4月の第2週からは、多くの学校で担任による面談が行われます。2週間の間にクラス全員と面談をしなければならないので、話が盛り上がったとしても、ずっと話すわけにもいきません。
それに授業後は部活もあるので、主顧問が部活を疎かにするわけにもいきません。
面談を行なっていると、生徒それぞれにドラマがあるので、3人目あたりから情報過多でお腹いっぱいになります。それでも4人目以降の生徒にとっては担任と1対1で話す大切な機会なので、更に情報を取り入れます。
聞いた内容は、デジタルにも紙にも残します。記録に残す作業をやることで、ようやく頭の中が整理されていく感じがして、すっきりします。
ここまでの過程がね、やっぱり自分にとっては楽しいんですよ。Linuxをいじいじしているのももちろん楽しいんですけどね、やっぱり学校の先生として働くって、楽しいんですよ。
親ではない立場から、子どもの心に触れる。それができる職業って、かなり限られてると思います。というか学校の先生以外、ほとんど無いんじゃないかな。
こうして先生として働くって、楽しいんですよ。今日は何回楽しいって言ってんだろ。
ちょっと心に余裕ができてきたんだなと自分でも思います。
そんなこんなで学校に遅くまで残っていた日々が何日も続きましたが、これを書いている配信日前日の4月11日は、面談も終えて部活も終えると、どことなく目の前の仕事に区切りがつきました。
きっと何かを思い出してしまうと、それはそれでまた帰宅するのが20時を超えてしまう。
よし、今日はこれにて閉店。帰ることにしよう。
https://twitter.com/jun3010me/status/1645728785436917760
こうして実現したのが、こちらのツイートでした。
自分の中では、もう少しかかるんじゃないかと思っていました。分掌の仕事も、単純作業などは主任の先生を通して他の先生に分担してもらえることにもなりましたし、本当に助けられました。
どんな仕事にも言えることかもしれませんが、いかに自分だけで抱え込まないかが重要だなと、仕事量が多い時には特に思います。
今回は前半と後半とで、テンションが全然違うなと思いますが、書いてる自分でも特に前半は読んでいてやばいなと思いました。たまには良いよね、リアルに壊れかけた時の文章を残しておくのもさ。
今は少し、人間味を取り戻しつつあります。最低限度の生活って大事です。生存権。
今回のnewsletterは以上となります。魚住惇はなんとか生きてます。今週も乗り切りました。「いいね」を押していただけるとうれしいです。内容に関するご意見ご感想がありましたら、「#こだわりらいふ」をつけたツイートや、Substack内のコメントまでお願いします。