キーボードは多神教である
生きることにこだわりを。魚住惇です。
前回お伝えしたクロオオアリ、あれからほとんどの幼虫が繭になりました。繭でいる期間が意外と長くて、2週間ほどこのままです。なのであまり変わり映えしないので写真は今回貼りません。定期的に昆虫ゼリーを与えながら、ワーカーの誕生を待つのみです。何より子どもたちも観察に熱心です。生き物を飼うというのは、命を育てて見届けるということ。同じ星に生まれた生命が生きていく様子を見るというのは、実に神秘的です。
ただ、今の初期コロニーの時期は、まだまだ安静にしなければならない時期で、女王アリも初めての育児に奮闘している頃です。僕らはあくまで、貴重な光景を見させてもらえる立場として、そっと支援するだけの立場です。頑張っている姿を見させてもらいながら、こちらも勇気をもらいたいのです。
今回もちょっとしたこだわりに、お付き合いください。
分割騒動
少し前に、僕がエバンジェリストを務めているHHKBの公式Xアカウントが炎上しておりました。そこまで大規模な炎上騒ぎではありませんでしたが、Xのトレンドにも上がっておりました。
ことの発端は、HHKBを2台左右に配置することで、左手と右手で別々のHHKBを使って分割キーボードを再現しようという試みを報告する投稿がユーザーからなされたことでした。この使い方は僕の知り合いにもそこそこいます。横に並べた2台のHHKBのうち、左の左部分と右の右部分だけを使って、手を置く位置を広げるのです。こうすることで肩に余裕が生まれて肩こりを予防できるのではないかという考えです。
ところがこの投稿にHHKB公式が「2台買ってよ」と引用リポストして、「高級なキーボードを公式が2台目の購入を煽るのはどうなのか」と炎上したのです。これはエバンジェリストに限らずエンジニア界隈の数々の著名人の方も苦言を呈している様子が見られました。
僕自身の感情としてはどうかというと、そこまで悪意のある投稿には感じませんでした。おそらく感覚が麻痺っているせいですね。HHKB関連のイベントでも、左右にHHKBを置いて分割を再現されている方を何度も見かけるので、2台使いそのものは本当に自分にとって珍しいものではありませんでしたから。ただ、今回はその感覚を一般の方にまで広めようと公式Xが引用リポストしてしまった。ここだと思うんですよ。
HHKBは東大名誉教授の和田先生がUNIXユーザーが使いやすいキーボードとして考案したことが発端となっています。和田先生とPFU社員が出会った当時のコンピュータはまだWindows95あたりでした。GUIが一般に普及する前の時代。その時代に導き出された正解がHHKBだったということです。
魚住がHHKBに出会ったのはそれから10年後の2005年のこと。大学に入学したら、その大学の先生や先輩たちがこぞってHHKBを使っていました。高校生だった当時は周囲にパソコンに詳しい人がいなくて天狗になっていたところ、大学でその天狗の鼻をへし折られました。自分がドヤっていた世界は本当に狭かったんだと痛感したところに、やたらと目につくHHKB。どうしてこんなにも皆HHKBを使っているんだと思えるほど、プログラミングやシステム開発を得意とする方達の間では既にHHKBが広まっていました。
当時の先生や先輩方の共通点は、Linuxを使っていたことでした。そして皆さんUS配列使い。僕自身ももう、「そうか、確かに聞けば聞くほど、LinuxでUS配列を使うのは合理的だし、何よりUS配列そのものが気に入った」という状態になりました。この体験からUS配列に目覚めて、ノートパソコンを買うなら必ずUS配列、家中のパソコンの設定もUS配列がデフォルトとなりました。
この頃はエンジニアが使うキーボードといえばHHKBが唯一の存在。という半ば宗教的な発想だったと思います。当時は60%キーボードの選択肢が他になくて、もうエンジニアもプログラマーも、HHKBがゴールで、みんなそこに辿り着く。そんな世界でした。一度こうなるとね、身の回りの全てのキーボードがHHKBの方が楽なんですよ。だから家も職場もHHKBになるし、どこかにモバイルを持って行って作業をするとなっても、そこにはHHKBがあったんです。
さて、かつてのエンジニアやプログラマーといったIT系の方たちの関心はHHKBにありました。しかし今はどうでしょうか。もちろんHHKBはHHKBとして残り続けており、HHKB Studioなどの新製品もリリースしています。PFU社も時代とともにBT版やHYBRIDなどを開発し、HHKBを多くのデバイスで使えるように進化させてきました。僕が思うに、HYBRID版がこれまでのHHKBの集大成であり、完成された形です。Bluetoothの接続先も3か所切り替えが、それも本体側から変更できますし、キーマップ変更にも対応しています。これまでのHHKBに対して思っていたことを全部やってくれた。そんな完全体です。
ところがこの辺りで自作キーボードという界隈が賑わいを見せていました。魚住もまた、このHYBRIDモデルが登場した2019年に、自作キーボードを購入して、その魅力に取り憑かれました。それ以来、僕は自作キーボードとHHKBの2つを時期的に交互に使いながらPCライフを送るようになりました。とあるタイミングではHHKBを夢中になってさわり、「やっぱりキーボードと言えばHHKBだ。もうこれ以外ありえない。入力していて自分のタイピング速度についてくるし、何より安定している。ずっと使ってきた配列だから快適だ」という思いに浸りました。しかしそこからまたすぐに「時代は自作キーボードだ。触っていて未来を感じるし、なによりファームウェアがC言語で書かれているから、自分で書いたコードの通りに動いてくれる。これはHHKBでは味わえないGeekさだ。」と思い、自作キーボードを触るようになりました。
HHKBが唯一の存在というわけではありません。HHKBはHHKBとして素晴らしく、動作も安定していて本当に素晴らしい製品なんです。そのままで十分に使いやすさに感動し、これまで自分を含めて多くのエンジニアを育ててくれた感謝の気持ちもあります。ただ、だからといって、自作キーボードは自作キーボードとして面白い世界であり、これがまたエンジニア心をくすぐられる、素晴らしい世界でもあるのです。
そうそう、ここ数週間の間は何を使っているかというと、Keyballを再び使うようになりました。2025年から1年ほどはHHKBモードが続いておりました。ただ、Keyballのようにトラックボールを備えたキーボードだと手持ちでは他に選択肢がなかったのと、自作キーボードのイベントでKeyball系を多く見てきたのもあって、「あそこまで魅力的なキーボードを見ちゃうと、また使いたくなるなぁ」なんて思いながら、押し入れから引っ張り出したわけです。
そこでいろいろとKeyballをいじっていたら、特にProMicro周りの接触が悪いことに気が付きました。これはちょっと、どこかはんだクラックでもできたかな?と思って、分解してみると、それはそれは基板の状態が酷いなと思ってしまったんですよ。写真を貼りますね。
汚い基板の写真が出ます。ご了承ください。
うわぁぁぁぁ、この汚れは、フラックスか?しかもこんなにも汚れとして残ってしまっているなんて。これが接触不良の原因か。この茶色い部分はなにかというと、フラックス残渣(ざんさ)です。はんだに含まれているフラックス(はんだ付け促進剤)が基板上に残ってしまったものです。これが基板の金属部分を腐食させ、電気の通りを悪くする原因となってしまっていました。
この基板を電気科の先生に見せたところ、「これはあかんですよ」と言われてしまいました。フラックスそのものははんだ付けを助けるもので、初心者にとっても強力なツールではあるんですが、残った部分を拭き取らずにそのままにしておくと、こうして汚れとして基板を悪くし、思わぬショートの原因となってしまうのです。
これは僕自身も勉強不足でした。まさか、フラックスにこんな負の側面があったなんて。電気科ではんだ付けが得意な先生は、フラックスそのものは追加でつけなくても、はんだの中に少量含まれているから、それだけで十分なんだよと話していました。確かにこれは明らかにつけすぎだなと思いました。ただそれと同時に、こうも自分はフラックスに頼らないとはんだ付けもうまくできないものかと、修行不足を感じました。
何もフラックスを使うことそのものが悪いというわけではありません。世の中にはフラックスクリーナーというアイテムもありますし、大抵の場合は無水エタノールを使って洗うそうです。そうと決まればこの基板をきれいにするしかありません。これ以上放置すれば、腐食も更に進んでしまいます。
結果、こうなりました。割と綺麗に仕上がったんじゃないかと思います。工科高校の先生方が教えるはんだ付けは、そこらの電子工作とは違い、いずれ工場で勤務する際に実際に使うスキルとして活用していくもの。そりゃ入り口は電子工作なんでしょうけど、仕上がりに求めるレベルがアマチュアとは違うのです。10年、20年とその回路が動き続けるかどうか。ただ単に通電すれば良いじゃないんですよね。
ちなみに、はんだ付けのスキルが上級者レベルともなると、フラックスは不要だそうです。LEDだって、温度を調整することなくサッとはんだ付けするので、故障させずにつけられると聞きました。職人技です。自分が素人であることを何度も痛感させられます。スキルレベルを限界まで上げた人を目の前にすると、こんなにも凄みを感じるものなんですね。もう一言一言に迫力があるんですよ。
職人の言葉を聞いて、いてもたってもいられなくなりました。すぐにAmazonでフラックスクリーナーをポチって、ドラッグストアで無水エタノールを買って、基板を洗いました。細い綿棒はガンプラ道具として所持していたので助かりました。
自作キーボードの世界って、これまでのキーボードとはまた違った面白さがあって、それで界隈の人たちの心を鷲掴み状態なんですよ。ハードウェアを自分で作って、ソフトウェアを自分で書いたりAIに書いてもらったりして、ケースは3Dプリンターで作ったりしちゃって。今の時代、キーボードは自分たちで作ることができるんです。かつて企業から買わせてもらうだけだったものが、自分たちで作れるようになった。基板も個人が中国の工場に安価に発注できるようになり、一昔前では考えられないような時代に入ってきています。
キーボードに限らず、デジタルガジェットを世に生み出すことが容易になってきているのです。個人が基板の設計をして発注し、ボディは3Dプリンターで作り、ソフトウェアはAIで書く。これができるようになってからの開発スピードは昔と比べて遥かに上がったのです。ただ、HHKBのような製品となると、開発費用もスピードも全く違います。企業が生み出す製品ですから、そこまでスピーディにはいきません。ただ売れるだけでなく、一生使い続けられることを想定した耐久性でリリースしているのです。そりゃ、個人が開発して自作したものとは背負っているものが違います。
でもねぇ、最近の自作キーボード界隈や新興キーボードメーカーのKeychronなどの動きを見ると、そうも言ってられないんですよね。分割キーボードまで出しちゃいましたから。むしろあれをきっかけに、HHKBが炎上しているようなものですから。エバンジェリストとしては複雑な気持ちです。学生時代からずっと応援してきたHHKBは素晴らしい製品です。しかし、今や自作キーボードの方がコミュニティとしての盛り上がりを見せています。HHKBはキーボードへのこだわりの第一歩的な位置づけです。そこがゴールの人もいますし、HHKBを足掛かりとして、自作キーボードの世界に入っていく人が多いのもまた事実です。かつてのキーボードの盛り上がりは、今は自作キーボード界隈になるんじゃないかと肌で感じています。
ただ単に分割すれば良いという問題でもない
逆転を狙うのなら、分割型HHKBを出すことかもしれません。しかし、HHKB Studioを発売したことで、「馬の鞍にすべてを詰め込む」という姿勢が体現されました。GUIのためのポインティングデバイスを用意して、ますます1台をどのデバイスでも使うのだという姿勢を確固たるものに仕上げたのでした。僕はあれが、分割に対する答えだと思っています。
先日、Xでこう発言しました。
2026年7月現在は、HHKBとKeyball39の二刀流です。使っているHHKBもHGモデルで基板をQMKに対応させたものを使っているので、こちらも実質自作キーボードのようなものです。記号の位置などは違うものの、指がそれぞれのキーボードに触れるたびに、あぁそうそう、このキーボードはこうやって使うんだったって思い出してくれるので、困らずに使えます。指が覚えてるんですよ指が。
時代は分割キーボードです。でも、製品として完成していて、超ド安定で動いてくれて、こちらのタイピングを受け止めてくれるHHKBも捨てがたい。そうそう、タイピングの速度を極めるとなると、HHKBなんですよ。レイヤーでいちいち切り替えているキー数が少ない分割キーボードは、あまり速度を求めるタイピングに向いていません。ここも個人的には重要なポイントです。
時代がここまで進んでしまった今、30周年を迎えたHHKBが次にどんなものを作ってくれるのか。僕は楽しみでなりません。それまでは、自分がソフトウェアにも手を入れたKeyballと既存のHHKBを交互に使いながら、時代の行く末を見守っていこうと思います。
あ、そうそう、Keyballをもう1セット買いました。試したいキースイッチとProMicroがあったので。これらについてはまた落ち着いたら紹介したいと思います。
今回のnewsletterは以上となります。
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