「文章が書けない」という悩みは、多分みんな持ってる
生きることにこだわりを。魚住惇です。 今回もちょっとしたこだわりに、お付き合いください。
「文章が書けない」という悩みは、多分みんな持ってる
世間はどことなく年末っぽい雰囲気です。振り返ると、毎週水曜日に更新しようと決めてnewsletterを書き始めたのが今年の3月17日でした。水曜日と決めて更新を続けてから、配信が夜になってしまうこともありましたが、10カ月ほど毎週更新する習慣がついてきたかなと思っています。
substackというサービスを使ったnewsletter配信について知ったのはごりゅごさんがきっかけですが、始めるなら始めるで、長期的に配信できる目途が立たないとなぁって考えていました。
今思えば3月の頃は、そんなずっと更新するなんて考えは全くありませんでした。それでも、Twitter以上ブログ未満みたいな、手軽なメディアが欲しいなという思いがあったので、結果的に「やってみよう」が僕の中で勝ちました。 自分でもよく続いているなぁって思います。
なんでこんな話になったかというと、最近「なぜあなたはそんなに文章が書けるのか」と言われたからです。 毎週newsletter書いて、たまにブログも書いて、寄稿する原稿も書いて。どうしてそんなに文章がすらすらと書けるのかと言われることがあります。
正直驚きました。 だって僕は、自分がこれでもか!っていうくらい文章を書くことが苦手だっていうことを知っているのですから。
この現象、よく耳にします。『「あなたはなんでそんなに文章を書くことが得意なんだ」「いやいや本当に苦手でいつも苦労しているんだって信じてよ」現象』です。
これに似たような話が、『ライティングの哲学』にも載っていましたね。というか『ライティングの哲学』全体が「俺らにだって書けないっていう悩みがあるんだよ」な感じがしました。
ああいう、自分からしてみたら雲の上にいるような著者の方々の「書けないんだよ」という生々しい話を目にすると、あぁ、この人たちだって、書けない書けないって悩んでいるんだなって思って、僕自身ちょっと安心しています。 みなさん、それぞれの苦労があるんだなって思うと、文章が書けないと思いながらも書いているのが自分だけじゃなかったって思って、共感してしまうんですよね。
だからかな。「よくそんなにも文章が書けるね」って褒められると、「いやいや実はそうでもないんだよ」っていう思いと、「あ、文章を書くときに味わっている独特の苦労が、そこまで表に出ていないんだな」っていう思いが両方一変にやってきます。
あとは、一口に文章を書くって言っても、種類も段階も様々なので、人によってどの段階で悩んでいるのかが違うっていうことも、自分の中で分かってきました。
例えば、「〇〇について書いてください」と言われた時、それが1000文字ほどであれば、僕はほぼ悩みません。ブログ記事で慣れた分量ですから。 それと、学校で働く上で避けては通れない生徒指導要録に書く生徒の所見。この生徒はこういう生徒だったっていう文章を1人あたり400字程度で書くっていうのを担任はやるんですが、僕はこの所見で困ったこともありません。書こうと思えばいくらでも書けます。推薦入試の推薦文もそこまで苦労せず書きました。
恐らくこれは、頭の中で文章の構成を組み立てることができる範囲だからです。 「〇〇について書いてください」と言われたら ふむ、そうか、それならあの話と、あれの話と、最後に例の話を書いて締めくくったらそれっぽいな。みたいなことが頭の中で完結します。
問題は、自分の頭のキャパを超える文章量だった場合の執筆です。つまり、頭の中でアウトラインを組み立てられない場合です。頭の中でアウトラインを組み立てられないのなら、頭の外で組み立てるしかありません。
多分多くの方は、それでも頭の中で内容を組み立てようとするはずです。あの話を入れた方がいいかなぁ、こっちの話はやめた方がいいかなぁ、じゃあその話はどこで書いたらいいかなぁ。でもこれがなぁ・・・。
思考が堂々巡りになって困っている様子を、僕は「悩む」だと認識しています。
キャパを超えるような考え事が頭のリソースを占拠すると、答えが出てきません。そして、答えが出ないことについても困るので、考え続けることそのものについても悩むようになります。
そこで便利なツールが、アウトライナーなのです!アウトライナーを駆使すれば、思考を巡らせたり、項目の順番を入れ替えたりして、読みやすい体系に整えられた文章が書けるようになります!
・・・なーんて思っていた時期もありましたが、僕の経験ではその逆で、頭の外に出したら出したで、可視化された分更に考えることが出てくるんですよね。
それでも、頭の中だけで考えるよりかは全然マシだと思えるくらいなものです。 ツールに頼っても頼らなくても、「今何を考えているのか」という自分と向き合い対話していかないと、心の奥で思っていることに気づけません。
自分と対話する方法だって、フリーライティングしてうまくいくこともあれば、人に話していると「あ!」ってなることもあります。特にこれが良いなんて言える行動は、その時によって違います。
結局のところ「なぜあたなはそんなに文章が書けるのですか」という問いに対しては、「この〇〇法という便利な方法があるからなんですよ」ではなく、「常にいろんな方法を模索しているからなんですよ」が一番正解に近いのではないかっていう気がしています。
人生初の切り抜きに合う
愛知 中3男子刺殺 逮捕の生徒 2月にいじめ「ある」と回答 | 事件 | NHKニュース
実はこの魚住、とあるテレビ局からこの事件について、実際に教育現場で働く教師の視点からのコメントを求められました。最初の頃は実際に番組に出演するのではなく、あくまで電話上で質問に答える形で、匿名で紹介する程度の話でした。
ところが話していくにつれて、ビデオ会議で首より下の部分のみを映す形でインタビューに答えてもらえないかと言われ、22時ごろに対応しました。既にお風呂に入った後だったので、そこから上半身だけカッターシャツにジャケットを着て対応しました。
その番組のディレクターとしては、「現代はSNSの普及もあって、生徒同士のいじめなどが分かりづらくなっている」という主張を番組内の軸にしたかったようです。
ですが僕からしてみたら全くの真逆で、「SNSの時代にGIGAスクール構想も重なって、グループウェアを通して生徒に対応できるようになった。なので、SNS上のトラブルも生徒が相談してくる頻度が増えた。」っていう認識なんですよ。
例えば、SNSでこういう書き込みをされたっていう相談があれば、スクリーンショットをもらうと確認だってし易いし、誰がなんと発言したか、しなかったかっていうのも証拠として残ります。一昔前の人間関係のトラブルと確かに種類は違いますが、SNSならSNSなりに対応もできるわけです。
なので、SNSが原因で生徒同士のいじめが見えづらくなったっていうのは、因果関係があるとは言えません。それを言ってしまえば、いつの時代だって見えなものは見えませんっていうのが僕が答えた内容でした。
それに、人の命の話なので、そのレベルだと必ずどこかにシグナルがあったはず。少なくとも僕がこれまで勤務してきた中では見逃した現場を見たことがありません。
そんなことを答えたわけですが、翌日の報道番組では、全く紹介されませんでした。 つまり、インタビューに答えた内容の一部を切り取られた!とかいうレベルの話ではなく、全部切り取られました!というお話でした笑
とはいえ、最後に「あなたが本当に学校の先生かどうかを確認したいので、何か証明になるものをお出しできませんか?」って言われたので、『教師のiPad仕事術』をカメラ越しに提示しました。「わぁ!本も出されてるんですね!」とびっくりされました。いやいやあなた、Twitter経由で僕にコンタクト取ってきておいて、そりゃぁないぜ。
でもまぁ本を提示したので、いつか別の話題で使ってもらえないかしらと、ちょっと今期待しているところです。プラス思考って大事ですね。
それでは今回のnewsletterは以上となります。 「いいね」を押していただけるとうれしいです。内容に関するご意見ご感想がありましたら、「#こだわりらいふ」をつけたツイートや、Substack内のコメントまでお願いします。